Malgré la nuit

Review of unpublished films in Japan.

ヨアキム・トリアー『セルマ THELMA』

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2017年度一番の期待作を思っていたよりも早く観てしまった…!正直に言って、まるでデヴィッド・リンチのような難解な映画を装った終盤も含めて凡庸な出来。それでも多少の欠点にも目をつぶりたくなるくらい好きな映画だし、2017年の新作ベストに入れたい。

何よりもまず、同性の子への恋心が芽生えた主人公セルマの葛藤を、手の震えや身体の痙攣、光の点滅を駆使して描く前半、そこでの彼女が想いを寄せるAnjaと二人で過ごす一時の多幸感がこの映画にはある。特にセルマが眠りにつこうとした夜、前触れもなく外に現れたAnjaが痙攣したセルマを抱きしめる場面には感動した。(点灯した光が彼女の顔を照らす瞬間!)

セルマが想いを寄せる彼女は、このように不意に現れる存在として描かれる。例えば、セルマが泳ぐプールサイドや二人がコンテンポラリーダンスを観劇するホールのロビー。後者では、この映画で最初のキスが成立する。セルマの空想として描かれる二人が情事に至る直前の、彼女たちの頬を高揚させる説明不在の光も嫌いになれない。

しかし、中盤でセルマが自身の症状に関する検査を受ける過程で、その感情を無意識的に抑圧して以後は、彼女が潜在的に持つ超能力を巡る映画となる。その結果、ヨアキム・トリアー特有の青春の物語もスーパーナチュナル的な展開に回収されてしまう。それによって、前後半での主題があまりにも乖離しているように見える。

それ以前に、そもそも『キャロル』という傑作がある以上、ホモセクシャルな感情を葛藤を伴って描くのは、はっきり言って前時代的だと思う。例えば、セルマが家族とレストランにいる場面で、訪れた男性同士のカップルを横目で見た彼女が咳払いをするのは、彼女自身の同性への思慕を打ち消す無意識的な態度に見える。

まるで男性器を連想させるような蛇の口内への侵入も、女同士の性描写には不要だと思う。『アデル、ブルーは熱い色』のアブデラティフ・ケシシュよりは無自覚だとしても、作り手の男性的欲望の介在は否めない。

感情を抑圧した(あるいは父親に抑圧された)主人公が表情を失う後半もベルイマンの『ペルソナ』のような観念的な映画になっている。主人公の抑圧によってそれまでの主題を宙づりにした後半の展開を含めて、このような描き方では、同性への恋心という主題は批評性を意識した記号とすら思えてしまう。

ただ、本作では、セルマに芽生えた感情を彼女自身がはっきりと意識していないように見える。それは彼女が潜在的に持つ超能力に対しても言える。感情的な葛藤が身体的な動揺として現れる本作では、感情が症状と取り違えられて処理され、後半の超自然的な展開へと至る。

この後半では、セルマの幼少期へと遡りながら、彼女の家族の関係が描かれる。彼女の潜在的な超能力は、抑圧的な父親を焼身させ、車椅子の母親の足を回復させる(前者は、タルコフスキーの『ノスタルジア』、後者は『ストーカー』の影響とも思えるし、中盤のベッドの上で浮遊するセルマのショットも『鏡』や『サクリファイス』の模倣に見える)。氷の下に幽閉されたセルマの弟には驚かされるけど、これも恋心が封印される中盤に通低する場面だと思う。

セルマの超能力によって存在を末梢されてしまったAnjaは、湖の底を泳いで渡ったセルマがたどり着いたプールサイドの反復によって再登場する。しかし、この感動的な再会もセルマの空想として処理されてしまう。

それでも映画の終わりには、序盤のキャンパスという現実的な舞台へと主人公を帰還させる。だから、セルマの元にAnjaが現れた瞬間に嬉しくなった。空想ではない彼女とのキスを交わし、手を繋いだ二人の間に芽生えた愛は確かなものとして成立していた。